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前回に続き また古いLDを観ました。
日本版「タッカー」の話(こちらは潰れずに健在ですが)



1961年本田技研は、オートバイレースの最高峰イギリス マン島で開催されたTTレースで125ccと250ccで優勝し、この勢いを駆っていよいよ四輪進出を計画します。
ところが当時の通産省(現 経済産業省)は、特振法(特定の産業・・・例えば自動車産業に新規参入を許さず、合併統合を奨励し自動車会社の大規模化を図ることで、国際競争力をつけようという法案)を国会に提出しよとしていました。

本田宗一郎と藤沢武夫はこれに反発!!

また当時 消防車両に使う「赤」と救急車や警察車両に使う「白」を乗用車に用いることが禁止されていました。
本田宗一郎は先進国でこんな事をやっている国は無いと 当時の運輸省(現 国土交通省)にも嚙みつきます。

当時 多くの四輪、二輪メーカーは、通産省、運輸省からの天下りを受け入れていましたが、本田技研は受け入れていませんし、政治家に献金もしていませんでした。
政官にパイプを持たない本田技研は、永久に四輪進出の機会を奪われる可能性がありました。

この難局を藤沢武夫のアイディアが救います。
「S500価格あてクイズ」(正解者にS500をプレゼント)に574万通の応募が有りました。
これには、通産省の役人も驚き 結局「特振法」は廃案になります。

そして1963年「赤」と「白」のオープンスポーツカーがHONDAから発売されます。

・・・って自分が産まれる前の出来事をこの眼で見たように 書きましたが
中学生の頃から通っていたオーディオ屋のオヤジさんが、オーディオの話だけではなく、よくこの話をしてくれました。
普通 何度も何度も同じ話を聞くと 「また同じ話か」 ってなりますが、不思議と「何かこの人は重要な事を必死に伝えようとしている」と感じました。

つづく
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